昭和45年1月19日 朝の御理解
御理解第32節
「女が菜園に出て菜を抜く時に、地を拝んで抜くというような心になれば、おかげがある。また、それを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし。」
畑に行って野菜を採って来いというのではなくて、畑からお野菜を頂いて来いというようなところが、地を拝んでいくというような事でしょうね。裏の畑から大根一本採って来いというのじゃない。大根一本頂いて来い。頂くというところに、大地を拝んで抜くような心になればと仰るのはそういう事だと思う。そういう心になればです、おかげがあると仰る。ですからね、そこんところにそういう、黙って採ってくる、俺が作ったものを持って来るというような心ではおかげは受けられん。大地を拝むような心、またそれを煮て食べる時、神様いただきますというような心あらば、あたることなし。例えば、儲からせて頂いたお金、まあおかげは頂いた、おかげで金は儲かったと、ところがその、儲かったおかげのためにおかげを落とす人がたくさんありますよ。せっかく苦労して得た地位のおかげで、その人の人間が反対に堕落したりする事もあります。せっかく頂いたそのおかげをです、いただきますという心がないからです。せっかく、例えば商売をして利益を得たといたします、そこまではおかげがある(?)おかげを頂いた。ところがその、頂いたおかげによってかえってその人が抜き差しならないような問題を作ったり、それが致命的なものになるような(?)になっておる事実が世間にはたくさんございます。そこのところをです、頂きますという心、例えばお野菜を畑から採って来いじゃない、大地を拝むような心、この辺のところが大事だと思いますね。またそれを煮て食する時、いうならば儲かったお金を使わせて頂く時、神様、このようなことに使わせて頂いておりますと、そういうような心あらばあたる事なし、それを使うことによってそれが生きてくるわけなんです。
もう、この例えば32節だけでもそのような風に頂いてまいりますと、とにかく大変な教えだなあと思いますね。大地を拝む心、すべての事が、いわば、これはお野菜だけの事ではない。煮て食する時とこう仰る。それを自分が使わせて頂く時、自分のもの使うのじゃない、自分のものを食べるのじゃない、神様の御物として頂くのですから、それが血や肉にならないはずがない。それがおかげにならないはずがない。
最近、大変風邪が流行しておる。朝参りの顔ぶれが大分かげってきた。一軒のうち二人、多いところは三人も四人も寝付いておられる。私の方も昨日から家内がもう頭が痛いっち言うて、まあ休みついてはおりませんけれども、若先生はとうとう昨日朝の御祈念を頂いたすぐから寝付いてしもうて、とうとう夕べの御月次祭にも出て来れなかった。ずいぶんそれが、腰がしびれるようにある。耳がとにかく痛むらしいです。夕べ休もうとしよりましたら、愛子がお届けに参りましたから、それからまた十二時、十一時半でしたか、それからまた私御結界につかせていただいて御取次させて頂いた。御神米を下げさせて頂いたら大坪氏というお書き下げを頂いた。とにかくあの人は少しぎょうらしいですから、たいへんぎょうらしい、愛子が私に申します、まあ痛いちゅうわけです。それから愛子がここでお届けするのに、もう痛い痛いと言いながら( ? )、私はそういうところがですね、おかげを頂くもとだと思いますね。自分も苦しい、自分も痛い、けれどもどんなに痛かっただろうかと思うその心が私はおかげを頂く元になると思います。それが私は大坪氏だと思うたです。なかなか御神米を頂く時にあの大坪氏というは、これは頂きませんもんね。これは金光様のお書き下げです、大坪氏。これは金光様の先生だからということじゃないですね、私共が信者時代にやはりお書き下げを頂くようになったんですが、特にその大坪氏という事がです、大きく地に平伏すと書いてある。おおは大という字、坪という字は土へんに平たいと書いてある。その、大地に平伏すという事がおかげになるのです。それは愛子が言う「痛い、自分もとても痛い」、けれどもその、まあ愛子に言うて聞かせるわけじゃなかったろうばってん、独り言のように言うておる事は、病気が痛いから、苦しいから泣いておるのじゃない、このくらいの痛さじゃなかったろう、(さえこ?)が亡くなった時はこんなくらいじゃなかったろうという、その、私は思いがですね、もうすでに大地に平伏しておる姿ですよ。いうなら神心ですよ。私はそれを聞かせて頂いてその事を神様に御礼申させて頂いた。その事を自分が実感、実感を持って感じられるという事を有難い、なるほど、金光様の先生がたあるなと思うた。自分が苦しいところを通らなければ苦しい人のお取次ぎはできん。私共が今限りの、やはり、まあいうなら貧乏させて頂いておりますおかげでです、ここでは金銭の御都合お繰り合わせを願うておかげにならん事はないと言われるくらいにおかげを頂いております。さあ手形ですと、今日の何時まで、もう時間きってのおかげです。これは私が金にいよいよ難儀をいたしておりますその実感が、本当に金のない時は苦しいと、その苦しい実感が神様に私は通うからだと私は思うです。
私は今日、私もここ12、3日くらい風邪をひきやせんか、ひきやせんかといったような状態。だから風呂にもできるだけ入らんようにして、夕べは御月次祭でしたからお風呂をいただいた。今朝も起きる時に頭が割れるように、グーッとこう走るように痛む、今日は、かなと思ったけれど、2、3回続いただけで何ともない。別に今日は寒気もしない。はあ、今日もまた御用に使うて頂くなあとこう思う。私、皆さんもご承知でしょう、私は大体体も弱い( ? )でしょうけれどもね、その、それで寝付いて御用を怠ったという事はない。やっぱり、風邪を引いてもやっぱりおかげを頂いておる。糖尿病だと言われても、足腰が立たん、6、7年立たない時がありましたが、それでもやはり、御用だけはお許しを頂いてさせて頂いた。それが、その、皆さんとどこんところが違うだろうかと。いわゆる、今日の御理解から頂くと、おんなが菜園に出てお野菜を抜く時に大地を拝む心あらばと、なるほど風邪をひかんようなという用心はいたします。けれどもそれは、いよいよ、ひいたらです、これは私は風邪を引いたじゃなくてから風邪を頂いたという実感が強いです。風邪を頂くのです。ですからその風邪がです、その風邪が大変なおかげにつながるのです、いつの場合でも私は。私の現在の糖尿病というこれがね、甘いものはいかん、辛いものはいかんと言われるけれども、私はやはり甘いものを食べ、頂きますし、辛いものも頂きます。いわゆる頂くんです、私は。だから触らないのです。食べるからいけんのです。糖尿病で私は御用がでけんという事はない、やはりおかげを頂いた。けれども、糖尿病という病気のおかげで、私は外へ出て歩かんで済むという事だけでも実を言うたらここではたいへんなおかげ。そりゃあもう二十何箇所の筑水連合会の教会のいろんな、それに私が出て行ってごらんなさいましょう、私はここで御用やらできやしません。若先生がかわりにいってくれますから、言い訳がつく。私は糖尿病で体悪いですからって、本当に深い深い御深慮がある事だと思う。その糖尿病がおかげの元になる。
私はいっぺん、大変な下痢をした事がある。それでそん時、もちろん勤めだけはきちんと勤めさせて頂いてから休ませていただいた。そうしたらですね、私がまあ椛目時代でしたけれども、御結界に座っておったんでは困る人がやってきたんです。それから二階に見舞うて下さってから、なるほどこれじゃあ出て来れなかったはずだとその人も納得してくれたようです。それから先のおかげが何ともかんともいえんまたおかげでしたんです。その事が済んでですね、その事が済んで帰られて、スキッと下痢が止まったんですから。結局その、体の上に起きてくる変調というような事でもです、神様の御都合あっての事なんです。これはもう絶対、お道の信心をさせて頂いて難はみかげと仰るのはもう絶対の事です。だから難をみかげとして有難く頂くという事なんだ。なら、風邪なら風邪でも、まあひかんごと(?)追いやろうとするような事ではおかげにならん。というて私は、いきなり、寒かところに出てからわざわざ風邪を引くというような事ではなくて、なるほどそれは風邪が流行っておるなら風邪に対する用心はさせて頂いて、もういよいよ引いたという時には、いよいよ風邪を引いたじゃなくてです、風邪を頂いたと頂くべきだと私は思う。だから私の場合は風邪を引いてもです、やはり、御用だけはできておると。皆さん、風邪は引くのじゃなくて頂かにゃいかんのです。風邪引いたからというて信心まで引いてしまうような事じゃいかんでしょう。
いよいよ風邪を引いたら、例えば頭が痛いとか寒気がするとか、風に伴う様々な故障がありますけれども、それを有難く頂くという事は、修行させて頂くという事。ね、頂くのです。私はそういう姿勢というかそういう頂き方が、お道の信心の日々の処し方だとこう思います。体調が。それを食する時に神様頂きますという心あらばと、その風邪を頂きますという心あらば、風邪は引いても、それによって御用ができんというような事はない、というような私はおかげにつながってくると思うのです。金光様の御信心をさせて、いわゆる頂く者の日々の姿、姿勢であります。
昨日、一昨日から昨日にかけて、竹葉会の、若婦人会の方達がここで泊り込みで、いわゆる入殿の形をとって信心の稽古をなさった。最後に試験というわけじゃないですけれども、まあ昨日から今日にかけていろいろ教えを頂いたり、様々な修行をさせて頂いて、最後に若先生が教学的なお話でも、させて頂く事になっておったんですけれども、ちょうどそんなわけで休みつきましたもんですから、私がおかげを頂いた。それで昨日の朝の御理解を頂いて、そのご理解から何を得たかと、どういう事を分からせて頂いたかという事を私は一つの問題にして皆さんに一人ひとり聞かせて頂いた。なかなかそれぞれに良いところをとってある。金光様の御信心とはともし問うたらば、金光様の御信心とはこういう信心ですよと、簡単に、しかも相手の心にもきちっとこう、はあそうですかと、金光様の御信心ちゃあそんな信心ですかと、まあ心を動かすくらいな事は言えれるような信心にならにゃいかん、そういう内容を持っての信心なのだから、という事からです、一人ひとり発表されました。私はそれをここへ書かせて頂いた。金光様の御信心は病気災難よけの神ではなくて、心直しの神だと説明する。病気災難よけの神じゃない、心直しの神様だと。私共は日々修行させて頂いておりますけれども、これはどこまでも教えを頂いて教えに基づいた生活をさせて頂くという事。二番目に、信心してどうしてこういうような事がと思うたら、あなたの信心は、いうなら程度の低い信心です。いうなら(しょうじょう?)的なですと説明しておるですね。信心しておってどうしてこのような事が起こってきたであろうかというところにはです、やはりおかげおかげ、御利益御利益という事を思うての信心だから、自分の思う事ではない、それが困った事であったり苦しい事であったり悲しい事であったりすると、どうして信心しておってこういう事があるだろうかと、神を恨むような信心は、それはあなたの信心はまず程度が低いと悟らなければならん。金光様の御信心は、次の事にですね、まあ続いたような感じですから続けて申しますと、その事をもって信心を分からせてもらうと。どうしてと思うような事、その事をもって本当の信心の深さに触れていこうとする。いわゆる真実を分かろうとする信心。本当な事、その事をもって本当な事を分かろうとする信心。いわゆる信心してどうしてこのような事がという事は、あなたの信心は御利益求めての信心であり、御利益専門の神様にしておる。病気治し、災難よけの神だけに頂いておったからそういう(しょうじょう?)的な事になってくるのです。金光様の御信心はそうではなくて、その事をもって信心を分かり、その事をもって真実に触れていこうとする信心。そういういわば(だいじょう?)的なものを内容に持っておる信心というふうにその人は説明したわけですね。
4番目に、天地の大恩を知るのではなく、天地の大恩を悟るというのだと、金光様の御信心は。天地の大恩を知るという事は、話を聞きゃあいっぺんどおりすぐ分かる。天地の大恩恵を受けなければ、一すくいの水だって一粒のお米だって飲んだり食べたりするところまでいかんのだけれども、天地の大恩恵に浴しておるからと、例えば水、米一粒の事の上からでもそれを知る事は出来るけれども、悟るという事はできない。天地の大恩を悟るという事、これはなかなか、やはり難しい事だと思う。けれども金光教では天地の大恩を説くのだ。そして、様々な信心、様々な修行、または体験の中から天地の大恩を、これはもう説明ではない、自分の心の中にそれを感じる。感じるからその天地の大恩に、いわゆる報謝の心が自ずと湧いてくる。神恩報謝である。そういう神恩報謝の生活を求めて金光様の御信心はさせて頂くのだと。
五に、願う信心ではなく、任せるという信心だと。これには大変説明がある。願う信心ではなく、任せると、ただお願いだけではなくてですね、お願いをするというだけではなくて、お願いしたらです、どうぞその通りにして下さらなければなりませんというのではなくてから、それから先はあなたに任せるという事。この(ように?)願うというところはです、私は実に、何というですか、庶民的というでしょうか、もう人間のさせて頂く信心だなという感じです。例えばこれは(だいじょう?)的な信心という事からだけいくと、人間の身辺の事、(?)の事、難儀な事、そういう事を願うという事、その事がもうおかしいんだとこう言うわけです。ところが金光教の信心では牛馬の事に至るまで実意をもって願えと教祖は仰っとられる。実意をもって願うところが違うのです。だから、実意をもって願う、願わざるをえないのである。願わなければおられないのである。神様どうぞとこう祈らなければおられない。そういう、私共が、いわゆる弱さ、人間の弱点。だから、むしろその自分の弱点というか、自分の弱さというものが分かれば分かるほどです、人間は無力である、我無力である、自分が無力であるという無力さ加減が分かれば分かるほど、そこにはすがらなければおられないというのが私達なんだ。それを願わないのはむしろ横着だということになるんです。それでいてです、願うてです、願うて、願うたら任せるというところに、いわゆる(たいじょう?)的な信心、(しょうじょう?)的な信心、そのどちらでもないという御取次ぎの働きというね、微妙な働きというものがそのへんの兼ね合いの中から生まれてくるようです。いわゆる金光教もこの辺のところがやはり独壇場だと思いますね。願う信心ではなく任せていくという信心。だからその、任せれるという事の為に修行がいるのだと、任せられん、実際を言うたら、実際問題としたら。けれども常日頃の信心が、修行がです、神様を信ずるというか、取次者を信ずるというか、金光大神を信ずる、そこから、金光大神にお任せする、親先生にお任せするという日頃の体験、日頃の修行がそのような事にならせられてくるわけですね。
また次には難しい事、六番目には、おかげに便乗し、おかげに便乗してはならない信心。同じようですね。私共は、さっきから申しますようにね、手形の事は(?)いくらいりますと、お願いしますとお願い、そこにまあ的確におかげを頂くと、という事はもうおかげに便乗しているわけです。けれどもです、けれども今度はおかげに便乗してはならない。今度は、今、今日のところからいくとね、いわば、大地を拝んで抜く気になったところがおかげを頂いた、おかげに便乗したわけなんですね。それを煮て食する時にです、それを煮て食する時に、神様頂きますという心あらばという事が、おかげに便乗してはならないというのはその事だ。頂いたおかげ、頂いたのが、ならお金ならお金をです、自分の勝手に使うちゃならんという事になるわけです。神様使わせて頂きますという心あらばになってくる。おかげに便乗し、おかげに便乗してはならない。そういう説明がついておる。
皆さんもどうぞ、金光様の御信心とはと例えばね、人が聞いたら、このような、まだもっともっと説明がありましょうけれどもです、これは一応やはり常識として知っておくべきだと思うですね。私共が頂いておる神様、はあもう合楽に参ってみなさい、もう先生はポコポコばいっち、はあもう目くらが目が開いたりちんばが立ったりしよるよと、なるほど事実である。けれどもね、それが合楽の信心であると誤解されては大変な事だ、迷惑という事になる。
七番目にね、御神徳につながる信心と。天地との交流というか、天地が自由になるというほどしの、そういう信心に自分の信心ははたしてつながっておるだろうかと。金光様の信心をさせて頂いておるとですね、御神徳が受けられる。御神徳ちゃあどげなんもんのという事になる。御神徳というのは、私共が天地の親神様から御信用を頂くという事。あの氏子は間違いない、あの氏子はなかなか実意丁寧だと、真心が強い、あの氏子は間違いがないと、例えば神様の御信用が頂けれる事になってくるとですね、いわゆる、無尽蔵、限りないおかげにつながる事ができるというのである。なるほど、おかげに初めからつながるというのではなくて、信心、真の信心させてもろうて、御神徳につながっていくという信心。ただご利益だけじゃないという事を(?)ね。
八番目にね、金光様の御信心は御結界というところがあると。そこで様々な難儀な問題をお願いする。いわゆる御取次を願う、そして帰りには御取次を頂いて帰るという信心、というわけなんです。昨日の朝の御理解からですね、昨日の朝じゃない、一昨日の朝の御理解からこのような風に皆さんが頂いておられます。御取次を願って御取次を頂く信心。願わなければおられない、人間、我無力であるという事が分かれば分かるほどすがらなければおられない。だから、すがったら(しょうじょう?)的だ、低級だというのじゃない。けれどもすがって、次には頂いて帰っておる。御取次を願って、そして御取次を頂いて帰る。御取次を願って、まあ分かりやすくいうならば、御取次を願う、そこで神様に先生が御取次をして下さる、そして今度は神様から氏子に対するいわゆる御教えである、御理解である。それを頂いて帰る。それが金光様の信心のおかげのシステムだと言うわけなんです。
そこで例えばそういうお道の信心の独壇場的な、または有難いと思わせて頂くところをです、だんだん分からせて頂いて、それを身をもってそれを有難いものにできるという事がです、その具体的な稽古の、まあ稽古の仕方とでももうしましょうか、そういう姿勢がです、私は今日の御理解32節にあるように思うのでございます。御理解32節を頂いて、それこそ繰り返し繰り返し32節を頂きましたが、今日のような風に頂いたのは初めてですよね。その事を今日どのような風に頂いたらいいだろうかと思うて次のところ、教典を開かせてもらったら、あの、白紙に神訓という事だった。神訓とね、というところがございますでしょ。その神訓という字を頂くんです。
これはどういう事かというとね、金光様の御信心はね、楽をしながら頂くというおかげじゃない、寝ながらタダ取るというようなもんじゃない。神という字は寝(ネ)ながら申すと書いてある。訓という字はごんべんに川という字が書いてある。だからこれは、言うた事を、ならここでお話を聞いた事を聞き流すという事であってはね、そこに体験も生まれないし、金光様の信心の本当の味わいというものは分からないという意味だと思うた。
今日の32節の、まあ、例えば菜園に出て野菜を抜くという事がです、またそれを煮て食する時に頂きますという心あらばというような事をです、私は今日は他の同じ意味合いのものだとして、他の例を持って申し上げましたですね。そして昨夜のお月次祭の時の御理解ではないですけれどもです、いわゆる地真水心である。いわゆる大地の真、地の真、水の心。ですから御理解32節はそういう事に、まあ一言にして言えばいう事になるのじゃないでしょうかね。地の真、水の心。大地がもっておる真、どのような事でも黙って受けるという受けて受けて受け抜いていく、しかもそれを相手によいものとして送っていく。
私は今朝から大変気持ちの悪いお夢を頂いた。それがその、ある人の、お百姓をしておられる方のお家の、その田んぼがですね、ちょうど畳3枚ぐらいのところが生えてないわけです。ですからどうしてそこだけが生えとらんのを私が言いましたら、それがあなたそこに牛がね、牛が腐ってそこにあったという。だから、来年からは良うできるでしょう、そん牛が腐ったごつなっとるけん、こちらに引っ張ってきてから根肥やしにしとるけんでちゅったらなるほどその牛のね、大きな牛が、ちょうど畳3枚ぐらいの牛がですね、もう腐ってね、そこに置いてある、肥やしのように置いてあるところを頂くんです。もうそれが気持ちの悪いこと気持ちの悪いこと。夢の中で。牛といやあ家のめぐりと仰る。難儀なもとこういう事。なるほどそういうものがあったから、なるほど田ができなかったはずだと。そこに牛が横たわっとった。そこが生えなかったんですよ。けれどももうその牛もだんだん、もうその、邪魔をしなくなって今度は肥やしになってくる事になってきたから、来年当たりは良うできるじゃろうとこう言うた、といったようなお夢であった。というようにその、大地というものはね、どういうような汚いものをもっていってもそれを十分ないわゆる沃土(よくど)にしていく働きをもっているものなんです。沃土とこうね、肥えた土地の事を沃土と。または、木なら植物をですね、根からずっと上に葉がしこるように、花が咲くように、送ってやれれる働きを大地はもっておる。だから私共が大地の心を心としていく生き方というものがこの御理解32節にあるようです。それが大地の真なんだ。地真である。地の真。それをです、例えばこうしなければならない、ああしなければならないというのじゃなくて、いわゆる水心、水の心である。水が器に従っていくような素直な心でです、その事を受けて受けて受け抜いていこうという生き方。そういう生き方の中からです、私は天地にこだまするというか、天地に響き渡るほどしの真が生まれてくる。そこが私は、今日のこの中にもありますように、お道の信心は御神徳につながる事のできる信心。難を難儀として頂くのじゃなくて、難をみかげとして頂く信心。そこに神様の、いうなら御真意というかね、神様の心に沿うていく生き方があるわけなんです。32節をまあ端的にいうならば、地真水心。地の真を真として、地の心を心として水の心を心として私共の生活の上に頂いていこう。そういう生き方は信心のない人、本当なことが分からない人から見ると随分馬鹿げた生き方にみえる。ふうたらぬくう見える。だらしがないようにも見える。けれどもね、そこに、私は天地が自由になって下さるほどしのお徳というか、おかげが頂けてくるようになるところからです、いやあやっぱり神様じゃなあという事になってくる。私共はそういうおかげを目指してというわけではない。一番初めに言った、金光様の御信心は心直しの神だと。心直しに焦点を置いて信心をさせてもらう、朝参りをさせてもらうと、そこからですね、いわゆる天地に通うものが生まれてくる。天地と交流する、それは昨夜の御理解をもってするとです、どこからこのような有難いものが心の中に頂けるであろうかということなんです。しかもこの喜びがです、どこへ( ? )っていくのであろうかと、このような悲しい事の中に、どうしてこのような有難い喜びが生まれて、悲しい、悲しい事は悲しいけれども、そのそこから、有難いものが湧いてくる。この有難いという喜びというものはどこからくるのであろうか。それが常日頃に、普段精進させていただいておる天地交流する、その信心を頂いておる。天地の道理に合うた生き方をしておる。それがそのような時に通うてくる。しかもその喜びはどこへいくのか。やはり天地よりほかに行くところはない。天地から出でて天地にかえって行く喜び。そこにおかげの、いわゆる無尽蔵と言われる、限りないと言われるおかげにつながる事もまた(理?)の上におっても分かる。ここはもうだから利害の(利?)である、理屈じゃない。体験しなければ分からんのです。
どうぞ、今日の御理解32節をそのような風に頂かれたら有難いですね。女が菜園に出て菜を抜く時、地を拝んで抜くという心になればおかげがある。またそれを煮て食べる時、神様頂きますというような心あらばあたる事なし。風邪を引いても、ああ困った事じゃある、風を引いたってなんでん困ったものにせずに、それを頂く心あらばである。それを拝んで受ける、拝んでそれを受け抜いていこうという気持ち、そこには風邪を引いても御用に差し支えんですむような不思議な不思議なおかげが頂けれる。これは私の風邪を、私もちょいちょい風邪を引くし、糖尿病であったり、足腰が動かんようになってしもうたりしたような時代がありますけれども、それでもその事を有難く頂いておるから私は御用ができてきた。ね、あたる事なしでしょう。
皆さんどんなに悪い病気が流行ってきてもいいです。どんなに流行性(?)、どんな風邪が流行ってきても恐れるに足らずである。身に受けた時にはそれを頂く心、それを拝んで、大地を拝む心で頂く。それをいよいよ引いたら、それを神様頂きますという心あらば御用に差し支えるというような事はないというようなおかげが頂けれるのが私はお道の信心だと思う。
どうぞ。